Richard Wagner

リヒャルト・ワーグナーの画像です。

リヒャルト・ワーグナーから学ぶ

ジュゼッペの時にちらと話を出しましたが、今日はこちらのリヒャルト・ワーグナーの方に注目したいと思います。

時代は1800年代のドイツです。

当時はザクセン王国と呼ばれていた所にワーグナーは生まれました。

家族は音楽好きの一家で、小さい頃から音楽に親しんでいたようです。
彼の兄弟にも音楽家になった人がいます。

彼はやがて音楽に限らず劇作などにも興味を持ち始め、それが彼の人生に大きく影響して来ます。

彼が音楽家として初めて注目されたのはザクセンから諸国を渡り歩いた後に、ザクセンの首都ドレスデンで最後の護民官リエンツィを公演した時でした。

そこで国立の楽団の指揮を頼まれたり、彼の音楽に最も影響を与えたと言われる作曲家のウェーバーの葬儀の時も演出を手掛けています。

ベートーベンが好きで第九を有名な曲として確立させたのも彼のおかげと言えます。

彼の代表曲の一つであるタンホイザーを創り上げ、徐々に名前を上げて行きますが、革命運動に参加した関係で国を追われる事になります。

しかしそれでも亡命先のスイスで活動を続け、スイスでも名前を知られるようになって来ます。それから代表曲の一つであるトリスタンとイゾルデを創りました。

恩赦が出てから祖国に戻り、しばらく離ればなれだった妻と再会を果たしましたが、ワーグナーは既に他に意中の人がいました。

指揮者でワーグナーとも仲が良かったハンス・フォン・ビューローの妻でコジマと恋仲になり、そんな折、二人とも離婚せずに二人の間に子供が出来てしまいました。

うおっ、何かスゴい話ですよね。

それからワーグナーの妻が病死し、コジマもビューローと離婚し、二人は結婚しました。
それ以来、ビューローはワーグナーと決別してしまいました。

ワーグナーはバイエルン王国のバイロイトという所に移住して、バイロイト 祝祭劇場を建築しました。

そこでは超大作のニーベルングの指輪とバイロイト祝祭劇場以外での上演を禁じられているパルジファルが創り上げられました。

駆け足でワーグナーの生涯をご紹介させていただきましたが、如何でしたでしょうか?

ワーグナーの生涯から感じた事

私がワーグナーの生涯をダイジェスト的に見ていて思ったのは、基本は恋多き男なのですが、それを自分の糧にして、創作に充てていたような感じがしますね。

だから亡命なんて憂き目を見てもめげないで創作活動を続けられたんじゃないかなと思います。

音楽に対しても女性に対しても妥協を許さない人だったのではないでしょうか?

妥協の無い気持ちから素晴らしいものは創られると思いますが、常に妥協を許さない事ばかりですと、それも結果としては良くない事があります。

人生において、時にはどうしても妥協というものが必要になって来る状況が訪れる事もありますので、その点はある程度自分の気持ちを騙してでも受け入れなくてはいけません。

意外と妥協してみたら自分の思っていた事に近づいたって事も有り得ますので、世の中というものは本当によく分からない事が平気で起こったりします。

きっと世の中というものは、同じ方法ばかりが通用する訳では当然無くて、臨機応変に対応した方が結果的には良かったりする事が多いのかもしれません。

妥協をしないとか、こだわりをベースに持ちながら、いざとなった時は柔軟に対応出来るスタイルが一番いいのかもしれません。

こだわりと柔軟のバランスが難しいところですが、このバランスが凄く重要だと思います。

new relation content
スポンサーリンク

シェアする

フォローする