直訳:罪の意識は告発者を必要としない。
あなたは罪を犯した事がありますか?
生きていれば大なり小なり、はたまた起こすつもりは無くても悪い事をしてしまう時があります。
自分が悪い事をしている自覚が強ければ強い程、罪の意識というものは強くなって来ます。
罪悪感というものは大きくなると、ずしんと重くのしかかって来るように心をさいなみます。
その思いから解放されたくて、白状してしまうという仕組みです。
ただ白状する方はそれで気が楽になるかもしれませんが、場合によっては白状した事によって他の誰かを不幸にしてしまうなんて事もあり得ます。
自分が楽になる代わりに誰かを苦しめてしまうかもしれません。
もしそういう状況が分かっているのであれば自分が楽になる事よりも誰かを苦しめてしまうという結果を回避するべきじゃないかと思います。
下手に真実を伝えるよりも白状しないで墓場まで持って行くくらいの方がいいのかもしれません。
そうすれば周りを苦しめる事なく、苦しむのは自分だけで完結します。
真実を話さないでいるというのも偽善者と言われるかもしれませんが、冒頭でもお話しした通り、人間は生きていれば大なり小なり悪い事をしてしまう生き物ですから、ひょっとするとお互い様なのかもしれません。
実はと言うと、みんな罪の意識にさいなまれているのかもしれません。
でももし白状する事で周りを苦しめる事が無い上に、自分自身が罪の意識に耐えきれなくなったら、今回のことわざ通り自分から白状してしまった方がいいかもしれません。
白状する事で自分も気持ちがスッキリしますし、周りに苦しい思いをしないのであれば、そういう選択肢をとった方がいいと思います。
罪を犯すという事は己の弱い部分に負けてしまったと捉える事が出来ますが、普段から自分に対する戒めがどれだけ強いかが鍵となります。
犯罪に全く関与しない何気ない日常でも自分に甘いか甘くないかという違いが大きく影響して来ます。
普段から自分に甘いと、だんだんと気持ちが緩くなって来て、最終的には自分では悪いと思った事でも欲に負けてしまい、罪を犯してしまうのです。
更に言うと前述の通り人間は大なり小なり罪を犯してしまう生き物なので、罪を犯してしまった後も重要になって来ます。
犯した罪に対して反省の気持ちがあれば、同じ過ちを繰り返さない可能性は高くなりますが、そういう気持ちが無いと同じ過ちを繰り返すどころかもっと大きな罪を犯してしまう事にも繋がり兼ねません。
今回のA guilty conscience needs no accuser. 直訳:罪の意識は告発者を必要としない。は必ずしも告発者を必要としないという事にはならないかもしれませんが、逆の意味で罪の意識を持ちなさいと教えてくれているのかもしれませんね。