高と低が隣り合わせ
この言葉を聞くと秋の季節の物悲しい様が浮かんでくるような感じがしますね。
秋という季節は日が徐々に短くなって来て気温も上がらなくなり、草木も枯れて来て、何となく寂しくなるような要素があります。
気温が下がって寒くなると、生きとし生けるものの活動も活発さが無くなって来ます。
寒い上に日照時間も短くなって来るので、寒い夜に活動したいとなかなか思わなくなります。
そういうところから四季はいろんな事に例えられます。
一年草も春に芽を出して、夏に成長し、秋に実を結んで、冬に種を残して枯れて行きます。
その四季に合わせた一年草の様子に人生もよく例えられます。
秋は収穫の時期でもあり、決して物悲しい要素だけではないかと思うのですが、収穫というピークの後で徐々に終幕に近づいて来るという感じが、秋の物悲しい状況に似ているので、今回の秋風索漠という言葉の意味には失意も含まれています。
夢は叶った瞬間から現実へと落ちぶれるなんて身も蓋も無いような事を歌った歌もありますが、厳しい言い方をするとそれもあながち間違っては無く、夢の時はいくらでも頭の中で美化出来たものがいざ現実になってみると『こんなはずじゃなかった』と落胆してしまうという事はたまに聞く話ですね。
自分が全盛期を感じた時に『あとは下り坂だな』と失意にうなだれてしまうのも無理からぬ事です。
自分が最高に思えば思っただけ、その後の事が怖くなるという心理は誰しもが持っているでしょう。
そういう意味では一気に駆け上がって行くような感じでは無く、少しずつ階段を上がって行くような感じの方が下り坂のダメージも少なく済むのかもしれませんね。
終わりというものは何にでもありますし、寂しかったり悲しかったりするものでもありますが、最後だからこそ楽しく締めくくれればいいかなとも思ったりします。
そういう生き方が出来ればかっこいいですよね。